ぽりとか

毎日更新。アーカイブはありません。クリスマスまで書きます。

明日のたりないふたり

『明日のたりないふたり』を見た。

 お笑いコンビ・オードリーの若林さん、南海キャンディーズの山里さん、ふたりの漫才ユニットが「たりないふたり」。その「たりないふたり」の解散ライブが『明日のたりないふたり』だった。

 私はお笑いが真剣に好きなのだけれど、不真面目なファンです。ここ最近はテレビを見ることもなくなって、お笑いを見ることも少なくなっている。たのしみにしているバラエティー番組などは無いし、お笑い芸人のライブに行ったこともない。(寄席は好きだけれども)

 ただ、そんな不真面目な私でも、お笑いというものに対して、いつも尊敬の念みたいなものを抱いている。その気持ちをどう表現したらいいのだろう? 私は、人を笑わせる職業、という普通ではない概念そのものを、うつくしいと思っているし、ありがたいと思っている。だってそれは、文学や絵画と同じように、芸術の一部を担っていて、まぎれもなく誰かを救っているから。それは部分的に、奇跡と同じ力を持っているから。

『明日のたりないふたり』は、若林さんと山里さんがステージの上に立って、2時間近くおしゃべりをするという、すごくシンプルな舞台です。でも、本当にただそれだけの出来事の中に、2時間以上の時間が詰まっていた。具体的に書くなら、12年間が詰まっている。2009年に「たりないふたり」が結成してから、2021年までの時間が。

 舞台には、笑いだけではない感情が詰まっていた。喜びも、怒りも、哀しみも、楽しさも、当たり前のように、全部が詰まっているんだ。考えてみれば、笑うという行動を引き出すのは、面白いという感情だけではないんだものね。悲しいことを笑い飛ばしたり、笑いながら怒っていたり、うれしいから笑っちゃったり、そうやって、世の中の不条理とか、軋轢とか、悲しみとかを、笑うことで受容していくのが、お笑いじゃん。それは、すべての人生のお笑いライブじゃん。

『明日のたりないふたり』を見た人の感想が、「号泣した」だったのは、すごく納得できることで、私も泣いてしまった。人生の「たりない」に気づいている人なら、山里さんと若林さんの言っていることが分かってしまって、笑うことも、泣くことも、防ぐことはもうできない。だって彼らが言及しているのは、たりないふたりのことだけではなくて、私達のことだからだ。たりない私達のことだからだ。たりなさを不安に思うことや、悲しく思うことや、悔しく思うことを、彼らは笑い飛ばす。あるがままを受け止められるように、笑いの形にしてくれる。その優しさも、必死さも、絶望をぶつけ合うことすらも、きっとお笑いライブでしか表現出来ないことだったんだと思う。

 それぞれが、それぞれの非力な竹槍を磨いて人生を生きている。そして、それは恥ずかしいことで、惨めなことかもしれないけれど、かっこいいことだなとか、思わせられてしまったんだ。お笑いライブというものが、こんなにも奥行きがある空間だなんて知らなかったから、また明日も私は、何も知らないことを恐れずに生きてゆける。